宮崎駿 崖の上のポニョ

完全にネタバレ。


観賞後しばらく何も言葉が出てこなかった。衝撃度では間違いなく今年一番の映画だった。まず、ポニョが宗介を追って波の上を駆け抜ける場面あたりからの一連の流れで、涙が。二人が抱き合う場面でカタルシスを感じたのはまだわかるんだが、家に入ってから、水道を捻る場面や、チキンラーメンを食べる場面でまで泣いてしまったのには、自分でも驚いた。チキンラーメンであそこまでの感動を生めるのは本当にすごいと思う。あとは、終盤の宗介とグランマンマーレとの絡みの場面あたりから、再び涙。ラスト、唐突にはじまる主題歌の反則具合にまた涙。といった具合で大変だった。

グランマンマーレとの対話場面は、まるでシャマラン作品を観ているようだった。映画を見た観客の多くが、「おい、ひょっとするとポニョってそんなに可愛くないんじゃないか」、と思っただろうことは間違いないが、映画内でさえも、口の悪いトキさんに、半魚人呼ばわりされていたポニョ。そんなポニョを留保抜き、理由抜きで愛し、信じる姿勢、それだけが問われ、無垢な五歳児宗介は、自信満々で自らの愛と信を表明する。たった一言、「うん、いいよ。」という言葉で。これには開いた口が塞がらないと同時に目からも涙が止まらなくなった。

一方で、グランマンマーレは、フジモトとの会話場面で、フジモトが、「もし宗介がポニョを愛せなかったら、ポニョは泡になってしまう」と言って、宗介を試すことを考え直させようとするのに答えて、「それもまたいいではないですか。われわれはもともと皆泡から生まれてきたのだから。」みたいなことを、あっけらかんと言ってのける。このあたりの抜けのよさがまた素晴らしい。

たしかに、宗教色を除いた人魚姫、などと銘打っておきながら、グランマンマーレの描写は、ちょっと引いてしまうぐらい、グレートマザーそのものだし、最後に老人たちが歩けるようになる理由は全くわからないし、洪水になった後出てきた家族とか船に乗った人たちは結局なんだったんだ、とかつっこみどころは非常に多いし、ポニョの台詞にしても、「スキー!」とか「ハムー!」とか、もう北京原人の「ウパー!」並に脱力系な感じで、ひょっとしてこれは客を舐めてるんじゃないか、とか思わないこともなかったし、これは駿先生もいよいよアルツの波が、とか勘繰りたくなるような場面もあったが、そういうつまらない詮索は一切やめて、ただすさまじいイメージの洪水と(ポニョが波の上を走る場面の、波の描き方のすさまじさ!)、宗介、ポニョの無垢な意思の強さに感動してればいい映画なんじゃなかろうか。


ネットなんかを観ると、結構細かい部分の解釈が乱れ飛んでいるようだが、そんなことしても野暮なだけだと個人的には思う。トキさんやフジモトの人物造型の異様さ、過剰さみたいなものは、確かに印象には強く残ったが、そこを掘っても駿さんの過去のトラウマがどうとか、そういう話にしかならないだろう。この映画はそんな俗流パトグラフィー的な解釈を重ねてあーでもないこーでもない言ってうんうん唸りながら観る映画ではないはずだ。さらに言えば、人間対自然の構図がどうのこうの、といった視点にもまるで興味がない。小生はジブリの作品を半分も観ていないので、他作品との比較などはまるでできないがあえてすると、まあ覚えている範囲だとナウシカなんかは確かにそういった文脈で何かを語りたくなるし、語ることに多少は意味がある作品だと思わないでもないが、少なくともポニョに関してその視点を持ってくるのは愚の骨頂だろう。

神話的構造に着目する、というのはまあベタだが多少は面白い部分もあるように感じた。ただこれについても細かいところに注意を向けるのはどうかなあ、という気が。細かい部分の整合性にはこだわらないで作られているところが神話的なわけだから、そこをまた掘っても何も出てこないだろう。とはいえ、どの部分が儀式にあたる場面で、重要なのか、という分析にはある程度納得させられた。特に3という数字が反復的に登場することの意味、なんかは。

具体的には、http://d.hatena.ne.jp/hana53/20080921/1222056519
これなんかを観ると、3という数字には、古典ハリウッド映画の文法、という点から見ても重要性があるということがわかってなおおもろい、みたいな。古典ハリウッド映画が、神話と似て構造的な部分の成り立ちに多くを負っている、ということもここからわかる。んで、またもシャマランとつながる、とか。

あと同じ方のブログでもうひとつの記事http://d.hatena.ne.jp/hana53/20080921/1222056518
これはさらに面白かった。スクリーンを横断する動きに〈魔法〉を見出す、という視点から、ジョン・フォードとの比較へ。これも要するに、古典ハリウッド文法を、文脈を抜きにして引用することで、純粋に形式的な部分で作品に魅力を生む方法、というか。さらにここで一番すごいのは、女が水平移動するときだけ、魔法が成立し、男が水平に移動しようとする動きは、ことごとく失敗に終わる、ということ。もしこれを駿さんが無意識でやっているとしたらめちゃめちゃ笑えるし、鋭い分析だと思う。

あと全体を通して個人的に気になったことといえば、出てくるほとんどの登場人物の行動に、一切の迷いがないこと。ベンヤミン的な「性格」の問題がここにも絡んでいるかもしれない。友達からはじめよう、とかそういうアホな話とは関係なく、「決断」、というのは非常に重要な概念だと最近思う。映画内で唯一ぐずぐず迷って失敗するのがフジモト、というのは、駿さんの露骨な意図が感じられていいなあ、と思う。

脚本がめちゃくちゃ適当なのは、基本的には何を語るかより、どう語るか、どう見せるかを重視したから、というか、その二つを徹底するだけでもこんな映画が撮れるんだ、というのを、世界屈指の出来を誇る原作小説を題材にしても、糞どうしようもない駄作しか撮れなかったダメ息子に見せ付けてやった、という感じなのかなあ、と勝手に解釈した。

とにかくすごい映画。劇場で大画面でもう一度ぐらい観ておきたい。