J.Gバラード コカイン・ナイト

バラードの作品ははじめて読んだが、凄まじかった。今年読んだ長編でベスト3には間違いなく入る。
96年にこの内容で書ける、というのは驚異。翻訳が出た時期の関係から、日本ではこの作品の先見性が、9・11がらみで論じられることが多いようだが、なにもあの事件に限らず、もっと広い射程でなにかを予見している部分の強い作品だと思う。

まず、人類はこうやって滅んでいくのではないか、というヴィジョンには非常に共感するものがあった。ウェルベックの長編なんかにも通ずる終末観。ちょうど我が家では、親がほぼこの小説で描かれているような、衛星テレビ中毒の無気力人間と化している現状があり、一方でユートピア的なコミュニティがはらむ闇、のほうにもまあ共感せざるを得ない部分が多く、うなずきつつ読んだ。

で、非常に感心し、かつ恐かったのは、そういった状況下でこれから人間には何が出来るか、という部分の描き方。ウェルベックなんかだと、そこは一切描かないため、読んでいて腹が立つだけなのだが、この作品の場合、ある意味では、現在成立する可能性のある唯一のユートピア的空間、と言ってもいいような、理想的コミュニティに関する描写が中盤以降続き、それが非常に読んでいて面白い。まあこれは60年代のヒッピーにおけるコミューンの再来みたいなもんで、危うさを当然内包してはいるんだけど、細部のコンセプトが非常にリアルで、欲出来ているので、馬鹿馬鹿しいものとして一笑に付することは出来ない。

おそらく誰かが言っているだろうが、おそらく、この作品でのユートピア的空間の描き方の裏には、セカンド・サマー・オブ・ラブの存在がある。主人公チャールズがイギリスからスペインへ移ってくる所から、小説が始まること、ドラッグ、セックス、ナイトクラブなどが、ユートピア世界の中心を占める要素であること、この小説が書き上げられた時期、などを考えれば、まあ妥当な推測だろう。おそらくバラードは、さすがに還暦を過ぎて野外レイヴで踊り狂っていたわけではないだろうが、セカンド・サマー・オブ・ラブの盛衰をある程度近い距離で観察していて、その経験を細部の描写に生かしていたのではないか。彼が精神科医サンガーに代弁させた、あらゆる逸脱がどんどん先鋭化、ハードコア化して、より鮮烈な見世物として機能する必要が出てくる、その無限スパイラルの果てにあるのは破滅だけである、という指摘は完璧に正しい。

眠いから続きは後まわしにしよう。箇条書き

能動性をいかに組織するか
転移を可能にするためには 外傷が必要

コミュニティ単位で活力を復活させること はすなわち コミュニティ全体に転移を発生させること そのために、

よくある話ではあるが、外傷としてのスペクタクル的事件の捏造が必要。(スカイクロラの戦争ゲームの話とか。観てないけど村上隆がかんでる女子中高生にサバゲーさせる映画もどうせそんな話だろう。狙いがわかりやすく透けて見えてしまうとまともに見る気が起きなくなる。というのは面白い問題かもしれない。)で、ツインタワーがどうとか。

クロフォードが全く相対化できなかった事の意味はよく考える必要がありそう。彼ほどやり口が上手くないし皆に好かれているわけではないだけで、やろうとしている事はたいして変わらん気がする。まあ別に犯罪は特にしていないけども。

ストア派すれすれのエピクロス派というか、叶恭子的な。

生贄があってユートピア的なシステムが上手くまわるならそれはそれでいいのでは、という発想をどう論駁するか。ベンヤミンの神的暴力の話とか。倫理、信念の問題とか。

最終的には、非西洋で生まれ、育ち、これからも過ごす者としては、破滅願望まっしぐらタナトス万歳路線よりは、倦怠からの撤退、で決まりだと思う。が、揺り戻しでカウチポテト族化する可能性には常に留意せねば。

チェスタトンストア派批判の文脈とジジェクキリスト教倫理本を組み合わせて考えるといいかも。精神安定剤VSアッパー系ドラッグ、という選択で、どっちかを選んでまっしぐら、といくのではなく、どっちの方向にも最大限力を注ぐことで高エネルギーでバランスを取る感じ。ようするに花田、ポー路線。

最終的には、最大限に両ベクトルを高めながらも演繹側から眺めるのが自分のスタイルなんだろう、というのはもうわかってきた。ポー、花田、楳図先生、シャマラン。宇宙人系。場合によっては、荒川先生もここに入れられるかもしれない。

一番難しいのは、管理された混沌を演出するための犯罪行為をどう裁くか、だな。やっぱり。これはめちゃめちゃ難問。