要チェックや

ベンヤミン 複製技術〜
衆生の倫理
ユング―河合 箱庭がらみのところ
丹生谷

38. 自殺の思考 (<愛>と<信>の論理<特集>) / 丹生谷 貴志

現代思想. 17(7) [1989.06]

40. チェスタトンを巡る神学的フォニイ (G.K.チェスタトン--ブラウン神父の世界観<特集>) / 丹生谷 貴志

ユリイカ. 21(9) [1989.07]

ヴォネガットのほうは、ライフ・アクアティック、モビイ・ディックを交えた三題噺っぽい感じにしよう。



シャマランのほう
http://www.upf.edu/materials/depeca/formats/pdf_arti_ing/ipintor_ing_.pdf
あとブックマークしたやついくつか。わりと英語文献が見つかったのでぼちぼち読もう。あと、予想通り、ジジェクがシャマランについて書いている文章が結構あるようなので、これはすぐ読もう。訳が出るまで待っている暇はなさそうなので仕方ないが英語で読むしかないみたい。だるい!

スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド」って映画があるらしい。見たい!

サインと、ドン・シーゲルの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』の関係
9・11 と 対 赤狩り


偽日記のシャマラン関連の書き込み
マニエリスム/バロックの文脈とも可能なら絡める


あとついでに見つけた 同じく偽日記から
InterCommunication」No.44の東、斎藤、大澤、鼎談
03/03/09(日)〜12

東―斉藤の対立軸について、と野衣!の日本現代美術に対する見方、のあたりは大事かと。
前者 やれ動物化だ、象徴界の衰退だ、とか気軽に言ってしまうと回復不可能な分裂病者がアガンベン本における回教徒の例えのように人間ではないものとしてとらえられてしまう。そこへの違和感から三界の構造を保持する立場をとる斉藤先生。

後者 >椹木野衣などは、「悪い場所」であり「ゴミ」のようなものしかない「日本」という場に「あえて」戦略的に没入することで、それを世界進出の武器としようとする。つまりスノッブ=シニシズムであろう。だから浅田彰による「幼稚」という批判に対して、浅田氏は「あえて」の部分にある様々な含みが分かっていないというような反論をするだろう。しかし、「あえて」だろうがなんだろうが、それがゴミにしか見えないことにかわりはない。それに、例えば大竹伸郎や村上隆ならば「あえて」を理解しているだろうが、彼らのまわりにあつまってくる若いアーティストたちはまさに「動物」であって、すでにその「あえて」さえ充分に理解しているとは言い難いと感じる。

これはまさに、この前はじめてカイカイキキの存在を知ってホームページを見たときに小生が感じた気持ちをそのまま表しているような。あと、さらに憤りを感じるのは、「あえて」抜きでゴミに没入している若手を「あえて」戦略的にピックアップしているようにしか見えない村上隆の姿勢。