保坂和志 世界を肯定する哲学

作者自身が序文で指摘しているように、中盤までは手探りで書いていたせいか、他ジャンルの人達がよく書きそうな、どこかですでに聞いたことのあるような議論に終始しているが、後半は彼の特異な視点がよく出ていておもしろかった。

中盤までの展開は、物理学については知識ゼロなのでなんとも言えんが、それを除くと基本的には、生物学や脳科学といった分野における、科学の方法論で「自己」や「意識」とは何か、を説明しようとするような潮流を受けて、そういった見方に回収されえない部分の重要性を、なんとかうまく説明しようとしてこんがらがっている、といった感じ。正直このへんについては下條信輔氏の著作なんかのほうが、似たような視点からより深く掘り下げているような気がするが。

終盤九章以降は、漫然と持ち歩いている記憶に関する、「記憶の充足性」を重視する作者の態度の中から、「場所」に堆積する「記憶」のイメージが出てきたり、言語で捉えきれない部分の話うんぬんに飛んだりして、最終的には独我論を乗り越えて脱自的な方向へと踏み出していく流れになっている。このへんは彼の小説全体のテーマでもあるような気がする。中でも「カンバセイション・ピース」なんかは特に。結果的になのか最初からそのつもりで書いてたのかはよくわからんが、彼の小説全体のネタ本のような本になっている気がした。最後に生きる歓びうんぬんという話にいくのは、ラカンの「享楽」とかとつながってくるのか。よくわからんけど。

あと、さすがに、カフカボルヘスの作品を引き合いに出している部分の説明は鋭かった。大分膝を打った。

11章の書物からネット上の文章の羅列へと移っていく際に何が起きるか、といったテーマは、大枠の流れとは別に非常に強い興味を感じたが、まだうまく咀嚼できていない感じ。