中島らも 何がおかしい

不幸にもらも氏の遺作となってしまった、笑いの理論に関する連載をまとめた本。おまけでネタ集やら対談やらもいくつかついていた。全部は読んでないが。

理論面で特に目新しさを感じる部分はなかったが、笑いと恐怖の近さについて語っていたところはなるほどと思わされた。笑いのネタは大抵一ひねりするだけでホラーになる、という話は、上岡龍太郎との対談でも話題にのぼっており、上岡も同意していた。
千原兄弟の初期のライブビデオで、よくジュニアが死ぬオチで一気にホラーの雰囲気に持っていっていたことなんかを思い起こさせた。

笑いが常に差別的構造を内包しているという彼の一貫した主張については色々と考えてきたが、結論としては、嗤いの方向を自分に向ける強さを持つことが必要なんだと思う。それが出来れば、高2病的な差異化のゲームからなんとか抜け出す契機を見つけ出すことぐらいは出来るのではなかろうか。あとは、手前味噌だが、ナンセンス系の笑いは基本的には差別的構造とは無縁だと思う。

ナンセンスが笑いの基本にあるかと言われればそんなことはないだろうが、日本では90年代にすでにダウンタウン吉田戦車が笑いの中心をナンセンスに持ってきているわけで、それから十年以上たった今になってズラしや反転に基礎をおくネタをやったところで、もはや賞味期限切れとしか感じられないのではないか。ただじゃあ何をやれば新しいのか、というところで、いまだ誰も有効な解答を示せていない、というのが現状だろう。あらゆる約束事をぶち壊した後に何が残るのか、何が出来るのか、という部分で行き詰まり感が漂っているというのは、メタフィクション業界なんかとも似た状況のような気がする。

らも氏も連載やインタビューの中でたびたび話題にしていたが、現在生きている笑いに携わる人間のなかで、笑いを最も理論的に突き詰めて考えているのは、桂枝雀立川談志の二人だろう。二人は共にかなりかっちりと体系化されてしまっている古典落語の世界にあくまで留まりながら、既に存在している噺から新たな魅力を引き出そうとしているように思える。二人の挑戦を跡付けることは、他ジャンルへの応用可能性という面から見ても意味のあることに思える。漫才にしろコントにしろ小説にしろ、パターンが出尽くしたかに見える状況から、いかに新しいものを創り出すか、そこにかかってくるという意味では同じだからである。

いずれにしろ二人の仕事を正当に評価するためには、まずはある程度古典落語を聞き込んで有名な噺のベーシックな構造を押さえないといけない。そのために志ん朝を中心に聞き込みを進めているところだが、なんとか夏ぐらいまでには一通り聞き終えたい。テープ目当てで落研はいるのもいいかも。