瀬々敬久 刺青 堕ちた女郎蜘蛛

谷崎原作の刺青、映画化は三度目ということで、原作まんまでやっても、もはや意味がないのは明らかで、いかに味つけしてくるか、という点を期待して観に行ったのだが、期待以上だった。

カルト教団に出会い系サイトといった今日的なテーマを盛り込みつつ、本筋の刺青に関するプロットを巧みに織り込んでいたのは見事。現代的なテーマにしても、中途半端に戯れで入れたり、若者文化を勘違いして痛さ満点で描いていたり、ということはなく、しっかりと狂気にふれるような取り入れ方になっていたのは好印象。

特に、カルト教団が破綻した後、たまたまテレビで観ただけの孤児院閉鎖のニュースに感化されて、狂熱的に募金へと向かっていくあたりからのテンションは素晴らしかった。
孤児院を救うために見返りを求めない贈与をしようと思い立ったはずの主人公達二人は、いつしか騙し援助交際で男から金を盗み取るようになっていく。究極の善行の裏にとんでもない悪行が存在しているというパラドックス。善を純粋に志向するがゆえに二人はこの世界でうまく生きていくことが出来ない。

冒頭部における自己啓発セミナーのシーンから明らかだったように、主人公はノアの箱舟的状況に追い込まれれば、自分を捨てることを選ぼうとするような極めて真っ当な、善良な人間であった。(もちろんその結論に至るまでには葛藤があり、その逡巡ゆえに偽善者の烙印を押されてもいるのだが)しかしそれにも拘らず、実生活での彼は妻と子供に捨てられ、幸せを得ることができない。その不条理に耐え切れず、彼は超越的な価値を求めてカルト宗教へと入信したのだろう。そして、最後の拠り所であった、その宗教までもがまた破綻してしまった時、世界の不条理性に対する彼の怒り、不満は頂点に達した。その結果、彼は犯罪行為を通しての募金活動に駆り立てられていくこととなる。

もう一人の主人公である女性の場合も同じである。出会い系サイトのサクラとして働き、日々男を騙し続ける生活に、彼女はある種の葛藤を抱いていた。しかしもともと彼女をその仕事へと向かわせたのは、不倫相手の自宅を訪問したことから男に捨てられたという痛ましい過去であっただろう。世界の不条理性に対する不満と、男達への罪の意識で引き裂かれそうになっていた彼女は、メールで送られてきた蝶の写真に心を動かされたのをきっかけにして、主人公と接触し、その後、騙されて彫士のもとに連れて行かれることとなる。ここで彼女は自ら刺青を入れることを選択する。刺青の持つ身体性に、閉塞状況に対するなんらかの突破口を見出したかのように。騙し援助交際を繰り返すパートにおける、行為中に泣きながら「許して」と叫ぶ彼女のシーンは胸を打つものがあった。

結局のところ、二人がパラドクスに嵌ってしまったのは、善悪について真摯に考えすぎたからである。「今こうしている間にもどこかで戦争が起きて何人もの罪のない子供や女性達が命を落としています」、といったようなそこらじゅうで毎日のように耳にする話題にいちいち真剣に反応していたら、正常な生を営んでいくことはおよそ不可能である。勿論だからと言って完全に他人事として扱っていいわけはないのだが、コミットしすぎても危険なわけで、そこには明確なバランスというものが間違いなくある。
本作の主人公達には、このバランス感覚が決定的に欠けていたのだろうと思う。カルト宗教にはまるタイプの人達には、人間的にとても素直でいい人が多いというのも、こういう部分から来ているのだ、おそらくは。
しかし、ではバランスをとるとはどういうことだろうか、と考えてみると本作における主人公達の陥ってしまった精神的袋小路が、決して他人事ではすまされないものであるということがわかってくる。
バランスをとるとは、ある種の妥協をすることである。見たくないものにフタをして意識の外に追い出すことである。もちろん意識的無意識的に関わらず、あらゆる人間が、なんらかのバランスをとる作業をしながら生きている。しかしひとたび無意識的にフタをしていたところから、不条理・カオスが噴出してきたとしたらどうなるか。そこから主人公達の狂気までは一足飛びである。

善悪に対する観念すらある種恣意的なものであり、結局のところ世界は不条理によって支配されているのだ、ということを体感し、善悪の彼岸に向かっていく姿勢があれば、ひょっとしたら彼等もうまく生きていけるのかもしれない。しかし、ツァラトゥストラでさえ、超人の誕生を未来に期待しているに過ぎないのだし、理想としてならともかく、現実にそんな生き方を貫くことは不可能かもしれない。

そう考えると、やや安直に見えた主人公二人が結ばれるラストも、仕方ないのかなと思える。このへんは「悪夢探偵」とモロかぶりだが、狂気をいかに飼い馴らすのか、というところで、どうしても恋愛にいってしまう、というのは一つの傾向としてある気がする。
もうちょっと別の道もあるんじゃないのか、とは思うんだが。どうだろう。

だらだらと書いてきたが脚本は瀬々氏ではなかった。脚本家がなかなか腕利きってことだ。

おそらく監督の特徴が出ていたと思われる撮影面では、主人公(女性)の撮り方は見事だった。まず女優の体型がモロに好みだったというのもあるが、彫士の家に最初に行った時の、縁側で足の汚れを拭き取るシーンや、刺青を入れていくシーンなんかは非常に色気があってたまらんかった。
あとはメールを打っているシーンでの字幕の出し方、女性が最初に新宿の喫茶店で男と落ち合うシーンでの、二人の緊張を表現したと思しきブレまくりのカメラ、などの演出もなかなか面白かった。

すでに二度も映画化された原作の映画化として要求されるハードルを楽々越えた、大傑作だった。不満があるとすればラストぐらい。