20日
八時起きで教習へ。技能、学科一時間ずつ。なんとか一月中ぐらいには免許が取れそうな気がしてきた。帰って昼食後、午睡。二時ごろ目覚める。学校に行くはずがだるくなり取りやめ。自室やスクエアで読書。

ジジェク「脆弱なる絶対」を読み終える。「信じるということ」と内容的に重複する部分が多く、そこまで詰まらずに読めた。例によってパウロに関する議論が刺激的。バディヴ「聖パウロ」なんかも部分的には読んでみたくなってきたが、いかんせん時間がなさ過ぎるので後回しか。中心的な議論の中では、「仮象」に関する議論がいまいち理解できなかった。ドイツ観念論をおさえていないとすんなり頭に入らない部分なのかもしれない。最終章の議論については、ジュパンチッチ、ドンファンあたりを読んだ上で、石川氏の著作と照らし合わせてもう一度考え直したい。
映画「ショーシャンクの空に」の一場面が、最後の結論部分を明快に表す例として登場するが、これは扱う作品をずらせばそのまま卒論に生かせそう。形式と内容の問題。内容のしょぼさゆえに崇高さが生まれている、という部分を取り出す感じで。
あとは、12章キリストによる束縛の解除、が重要か。

キリスト教本来の「束縛の解除」は、顕在的な法を停止するのではなく、むしろ、法に潜在的に取り憑いた、幽霊のような猥褻な付加要素を停止するのである。 184

という部分とか。幽霊つながりでこじつけよう。

ジジェクの議論でちょっと問題含みかな、と思うのは、理論を説明するために、大衆文化から具体例を引っ張ってきている、というニュアンスが感じられることだ。悪く言えば、ある作品なり現象があって、それを理論的に解釈しようと試みる、というよりは、先に理論があって、それの正しさを証明するために、具体的な事象をダシに使っているように見える部分がないとは言えない。もちろん、事例分析が目的で書かれた本ではないわけだから当たり前といえば当たり前なんだろうけど。ただ、やはりどうも、精神分析理論の無謬性、強さ、のようなものに対しては、映画や社会現象の解釈に利用された場合の、切れ味のよさゆえに、かえって、こんなに綺麗に説明できてしまっていいのだろうか、と妙な不安に襲われる部分があるのも確か。あとは、ある程度まとめて読むと、ほとんど同じような話ばかりしているような気がしてくる、というのもあるか。金太郎飴っぽいところがあるかも。

夜は楳図かずお先生の「洗礼」を一気読み。怖すぎ。「シックスセンス」と「アンブレイカブル」を足して二で割って女性版にしたような話だった。

「解離のポップスキル」から、中井久夫先生、浅田彰との対談部分を読んだ。「解離」症例の増加や、薬物療法の発達によって、個人の病理を精神分析理論で語ることが難しくなっている現実、というのは、よく認識しておく必要がありそう。その上で斉藤先生は解離の精神分析化を試みているようだ。どういったアプローチでそれが可能となるのかはよくわからなかったが、この本に収められた他の論文に目を通せば少しは感覚がつかめるかもしれない。

ドクター苫米地氏ブログにて、「世界金融恐慌について」という文章を読み、びびる。CDSという言葉すら知らなかったのだが、こんな仕組みでは悪さをする奴が出てくるに決まっているわなあ、と思った。このエントリは多少陰謀論寄りなのかもしれないが、そのへんの信憑性を判断できるほどの経済の知識は持ち合わせていないのでよくわからん。古臭い感覚なのかもしれないが、個人的には実体経済以外はまるで信用できない、という感じがする。卒論が終わったら経済の勉強をはじめたい。まずは常識レベルから。

やらなければならないことをやる方法を考えないとさすがにまずい。と何日も書き続けているうちにそのまずさが日増しに高まってきている。

18日
昼ごろ起きる。ゼミに出てSATCについての発表などを聴く。あの四人の主人公達には、ゲイを除いて、セックスの介在しない男友達は全く存在しないらしい。その分それぞれにゲイの親友がいて、彼等とは良好な関係を築いているんだとか。わかりやすいといえばわかりやすいが興味深い線引きの仕方だと思う。しばらく喫煙所で無駄話の後、原宿に移動。輸入文房具店で、親と友人の誕生日プレゼントを購入。徒歩で渋谷へ移動。内定者の集まる忘年会に参加。女性陣の趣味の話に付き合い無難に乗り切る。ジャズやフュージョンが好きな娘、大泉洋の大ファンの娘、などがいた。家に着いて、トヨタカップ、ガンバVSマンUを見ていたら途中で寝てしまった。
とにかく失点の仕方がもったいなかったな、という感じ。特に一点取った後すぐにルーニーにやられた場面が痛かった。点が入った瞬間から、明らかにマンUの本気度が上がっているのが見て取れただけに、ほぼ全力のマンU相手にどの程度勝負させてもらえるか、という部分をもう少し見たかった。あの得点以降は、前半同様の流し気味のペース配分に戻ってしまっただけに、いくらガンバが三点取ったからといって、彼らの攻撃サッカーが世界王者にも通じた、ということにはならないだろう。


19日
朝早起きして教習。技能二時間、学科一時間。終了後、アメリカから一時帰国中の高校時代の友人と昼食。ムルギーに行くはずが閉まっていたため、目黒ルソイで。海老カレーせっと。うまし。

ビジネスの世界では、理論と現実がどのように対応しているのか、といった話を聴き感心。仮説に収まらない例外が見つかるたびに、それを包摂する新たな理論を組み立てる、というプロセスを、金銭面や時間、人的コストといった外的条件の許す限り行う、というのが基本的なスタンスのよう。哲学なんかと違って、〜までに結論出してね、といった締め切りや、その他外的な条件による限界が明確にあるので、仮説の更新が永久に終わらない、いわゆる解釈学的循環、のようなデッドロックに達する危険性はほとんどないようだ。なるほど。当たり前といえば当たり前の話なんだろうけど、まるで縁のない世界の話だったので新鮮に聞こえた。コンサル、という仕事の内容は、たぶんある程度使えるレベルの仮説を素早く、大づかみではあっても提示していくことなんだろう。

あと、面白かった話題。アメリカでは、同じ学校に野球部が二つある学校が珍しくないらしい。互いに相手チームを意識させ、競争を促すことで、劇的に成長速度が上がるんだとか。そういったスポーツまでも利用して、敵、味方を明確に分ける考え方を、幼少期から徹底して叩き込むようだ。ディベートや議論が重視される傾向にも、同じ事情が関わっているんだろう。凄い国だ。結局、アメリカはダークナイトだからもう駄目、という話ばっかりしていた気がする。ブルースはヒロイックに悩んでズブズブ深みにはまっていくわけだけど、彼の悩みなんざ、ようはヒールがいなければ善玉レスラーは輝かない、という程度のことでしかないわけだから、ヒーローも楽じゃないなあ、と笑いつつ、プロレス的な予定調和、手打ち、八百長の持つ意味をもう一度考え直せば済む話なのではないかと思うんだが、それがなかなかできないのがアメリカなんだろう。

夕方友人と別れ図書館へ。ジジェクの続きを読んだり、たまたま棚で見つけたラジニーシの告発本をぱらぱらめくったり。ラジニーシは、わりと反面教師としては、参考になる面が多い人だ。

帰宅後は眠くてあまり頭が働かなかった。明日もはやいのでもう寝る。

クリストファー・ノーラン ダークナイト

ネタバレ。メモ。

カット、テンポ
まず目に付いたのは、速さ。カット数は相当多そう。目がチカチカする場面も何箇所かあった。カーチェイスのところなんか、すごい金かかってるし、車がいっぱいぶっ飛んで愉快なんだけど、さすがにカット割りが速過ぎやしないか、と思った。何が起きてるのかすら把握できないところもあったし。
二時間半もあったとはまるで感じさせないテンポ。とにかく、落ち着くということが一瞬もない。台詞、出来事の応酬がすさまじいハイペースで続く。会話の内容は洒落ていて知的な感じなんだけど、余裕は一切感じられなかった。ドラマのグレイズ・アナトミーなんかをたまにチラチラ観ていても似たような感覚があるように思うが、とにかく何でも、もっと、もっと、で過激化していくしかないから、しょうがないんだろうけど、速いなー、というのは終始感じていた。こんなに文章をぐだぐだたくさん書いてしまっているのも、映画のペースにある程度脳が同期させられてしまったから、という面があるだろうし。
内容面でも速さの面でも、シャマランのアンブレイカブルと比べると面白そう。アンブレイカブルは、バットマン等のDCコミックが元ネタなので当たり前といえば当たり前なんだけど。例えばあの映画ではブルースウィリスがバーベルを上げているだけのシーンを十分ほど見せておいて、そのしょぼいシーンを演出力で重要なものに仕上げたりしているわけで、いかに向いているベクトルが違うか、ということは言えそう。


アクション
アクションシーンは、過剰すぎる気はしたがなんだかんだで楽しんだところも多し。マイアミ・バイスみたいなキメ感もあって、なかなか洒落ている場面も随所に。台湾の場面で飛行機にフック引っ掛けてすっ飛んでいくところとか、最後のほうでジョーカーが潜伏してるビルに突っ込んでいく一連の流れとか。

俳優
かなり深く役になりきって演技をする憑依型の役者だったらしい、ヒース・レジャーは本作含む二作の問題含みの役柄に深入りしすぎたのと、私生活での不調が重なって精神を病んで亡くなってしまったそうで。そういう話を聴くと、こんな過剰な映画を作ること、それを嬉々としてエンタテイメント作品として楽しむことは、果たして健全なのかどうか、と考えたくもなる。まあそのあたりはもうアメリカさんは後戻りできないポイントを突き抜けてしまっているんだろうけど。確かにベタな言い方だが鬼気迫るものは強く感じる演技だった。個人的にはげらげら笑い続けるニコルソン版ブルースのほうがよっぽど恐かったが。
もはや単純に正義の味方とは呼べない混乱した要素の強く出たバットマン、ブルース役のクリスチャン・ベールも実の家族への傷害事件が明るみに出たりしていたし、何か色々と周辺情報にも恐いものがある映画である。あからさまにリアリズム路線をとっていること、主演二人が映画同様の狂気を実生活で発していること、などから、映画が現実を模倣するのか、現実が映画を模倣するのか、みたいなよくある話にも容易につなげられてしまうんだろう。それがいいのか悪いのかはよくわからんけど。

形式、周辺
とにかく現在のハリウッド大作マナーにのっとって作られている。カット割りの速さしかり、でかいもん、高価なモンをどんどん爆破していく見境のなさしかり。
特注のでかいカメラなんかも使ってるそうで、臨場感あふれる!ド迫力の!!(棒読みで)映像、ってかんじー、だった。


内容
複雑でもないがよく練られたプロットで、ほとんどスキなし、という感じ。
ジジェク先生ならなんと言うだろう、と転移丸出しで観ていたが、多分自分の能力では、その辺を予想するにしても、丸一日ぐらい死ぬほど真剣に頭をひねって、一つか二つ、それっぽい視点を出すぐらいが限界なので、今は無理。
とにかくバットマンの偽善ぶりがすごいことになっていた。一番象徴的かつ見事だったのは、ジョーカーがギリギリまで彼を追い詰めて、検事デントか好きな女レイチェル、助けられるのは片方だけ、さあ選べ、と強制する場面。二人の場所を同時に教えるも、双方はある程度はなれているので助けに向かえるのは片方、という塩梅。レイチェルを選択するバットマンに、観ていてあーあ、やっちゃたよこれ、とがっかり。するとジョーカーは周到なもんで、その答えを読み切り、あえて二人の居場所を逆に教えていたという罠。女だと思って急いで駆け寄ったら検事で、彼助けてるうちに最愛の女性は爆死。死ぬ前に受け取っていた手紙には、彼女はブルースではなくデントを選んだ旨が記され、その理由には、街がバットマンを必要としなくなることはあっても、あなたがバットマンを捨てることはできないでしょう云々、というさんざんぶり。しかしその手紙をあずかった執事のアルフレッドが手紙をブルースに見せる前に、ブルースは彼女は僕を選んでいた、このことはデントには黙っていなくちゃ、などと馬鹿丸出しの痛い発言、これを聞いた執事は事の次第を察知、最後には手紙を燃やす。
レイチェルをめぐるブルースのダメぶり、ともう一つ重要だったのは、検事デントとの絡みか。お互い、それぞれの思惑もありつつ、一度ずつ相手になりすます。
二度にわたって出てくる、ジョーカーの偽トラウマ告白シーンもまあ狙いすぎという気もしたがオモロ。口の傷の由来についてのそれっぽい物語、自分語りをするんだけど、二度目は一度目と矛盾する話をしていて、ああ嘘なのね、とわかる。

オチのつけかたは、まあ超バッドエンドにしない範囲で深刻さを残して終わらせるならこの方向性しかないわな、という感じがしたが、やや物足りなさを感じたのも確か。徹底してリアリズム路線で来て、ギリギリまで追い詰めたところで、結局は幻想、嘘が必要、という流れに向かう、という皮肉はまあ笑えたが。ここから続編でまた傑作を作ることができれば本当に脱帽だが厳しいだろうな。開き直ってめちゃめちゃこれは単なる作りばなしでっせーという雰囲気を前面に押し出して撮ったら面白いと思うけどまあしないだろうし。

9.11の影響、とかいう面で見てもシャマランとの対比は意味を持ちそう。アンブレイカブルは、9.11を予見していたといえなくもないし。この映画はアメリカで確か歴代最高の興行収入を記録していたはずだが、観に行ったアメリカ人の客達の果たして何割が、バットマンアメリカ、という構図をある面では認めて作品に接していたのか、というのはすごく気になる。映画館に展示されていた、新聞の切り抜き記事によれば、保守系のアホな人達の中に、バットマンは本当の正義を行っているのに、周りにはどうしてそれが伝わらないんだ、バットマンとはブッシュ様のことを表しているんじゃないのか、といった、本気で言っているとしたら背筋が凍るほど恐ろしい発言をしている輩がいたとか。凄い国だ。


ここまで追い詰めて作品として昇華した、という意味では映画史にも残るような傑作、なのかもしれないが、支持するかしないか、でいえば支持はしたくない感じの一本だった。ユーモアを使って、倦怠からの撤退をとっとと実現しないとまずいことになると思う。
公開後に金融バブルがはじけて大恐慌が来て、という2008年のアメリカを象徴する一本として、後々後世にわたるまで人々の記憶に残る映画になるかもしれないな、などとも思った。どうせここまで追い詰めたんだったら、完全に突き抜けてポニョぐらいまでいってほしいものだ。

17日
そろそろ日記の形式を変えるかもしれない。自分用のメモを日本語の読み書き能力を持つ人間全員に向けて公開する意味が全くないことは火を見るより明らかなので。とりあえず卒論完成までは、ワード検索が結構役に立つ場合があるのでこの形式でオープンで書き続けて、その後はクローズに戻すか他サイトに移行予定。何か書くならば、そろそろ読む人間が一人でも存在することを想定したものを書くことにしたい。

今日は昼過ぎに起きて冷凍スパゲッティ。雨の中学校へ。斉藤環先生のゲスト講義。鏡像段階の基本的な説明あたりから入って、おたくカルチャーとアウトサイダー・アートの話まで。様々な本で展開されている氏の議論のさわりの部分を、軽くさらうような内容だったため、そこまで得るものはなかった。先日展示で観て気に入ったアドルフ・ヴェルフリについて触れていた。やはりダーガー並にその筋では有名な人だったようだ。視覚表現と聴覚表現の対比に関する話で、「全ての芸術は音楽を目指す」という昔の評論家の言葉が引用されていた。これはまさに小説家や画家が生涯抱えるジレンマなんだろうなあ、と思う。保坂氏の小説論の本なんか、タイトルからもろそういう感じだし。その点講師のお二人は、音楽家、という立場に立脚しつつ文筆を行っているので、そこまで言葉を使って音楽的な表現を試みることに対するオブセッションがないんだろう。

音楽においてアウトサイダー的な表現をしている人はほとんどいない、という話題が出ていたので、シャッグスダニエル・ジョンストンについて、そのあたりの音楽に詳しい講師の先生に質問してみたところ、シャッグスはパーソナリティー的には何の問題もない女の子達だった、とのこと。そんなわけないと思っていただけに驚いた。

図書館で新潮2008年11月号、あと何冊か、少しずつ読んだ。古谷×保坂対談と、古谷氏による「衆生の倫理」書評など。後者はなるほど細かく読んでるな、という感じ。精神分析神秘主義化し、神秘主義精神分析化する部分の強引さが、面白いポイントでもあり、危うさを含んでいる部分でもある、というお話。「母子一体のガチな濃密感」がらみの記述にラカン理論の誤認がある、という指摘については後で確認できたらしよう。多分めんどいからしないが。

五反田に移動、久々に「うどん」へ。冬の夜カレー。具は牡蠣のみというストイック極まりないメニュー。その分全神経をスープの風味に集中させて食べた。ここでカレーを食べた後は必ず多幸感に襲われる。食後の満足感にひたりつつ、コートのポケット全開で歩いていたら煙草を箱ごと落としてしまった。

目黒へ。目黒シネマ、ラスト一本でクリストファー・ノーランダークナイト」を。大体思ったとおりの映画だったが、善悪の境界を揺さぶる意識の徹底ぶりは予想をはるかに超えるものだった。そこまで追い詰めちゃうのか、と驚いてしまうほどの追い詰めぶり。個人的には、とことん追い詰めるよりも、適度にユーモアでくるんだティム・バートン版のが好みだが、この徹底ぶりは素直に凄いと思った。

帰宅後、卒論に取り掛かりたくないがために長時間ネット。80年代クラブカルチャーについての記事を読んで複雑な気持ちになったり、内田樹の「日本の外国文学研究が滅びるとき」http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php を読んで、わりと反論のしようがないなあと思って落ち込むと同時に、これを読んだ直後に自分の卒論の英訳をするというのは皮肉にもほどがあるなあと思ったらマジで嫌になってきたので酒飲もう。